銀座ホテルプロジェクトの舞台裏

updated: 2018.03.01.

銀座ホテルプロジェクトの舞台裏。
21日間の苦闘と喜び

「ところで、お前さんのデザインは、いつ見れるかね?」と、鶴のような細身の老人が、私に尋ねた。2011年の7月の初旬のことだ。彼はシンガポールの大華僑の大番頭で、大手不動産会社と取り組んでいたプロジェクトの件で、最後の詰めのために来日していた。「ネクストマンス」と答え、少し間を置いて、「アーリー」と付け足してしまった。この最後の余分な一言が、自分も含めて、周りを巻き込んで、その後の大変で実り多い21日間を迎えることになった。
 この銀座のプロジェクトは、その何年も前から取り組んではいた。事情は複雑で、数年に渡り一進一退を繰り返していたが、その数か月前からホテル案が浮上して、急な展開を迎えていた。とは言っても、当時は東京オリンピックも決まっていなかったし、東日本大地震災はあったで、現在のような空前のホテルブーム(とりわけ、地価の高い銀座ではなおさら)の空気感は、関係者の中で漂っていなかった。その中で、推し進める強力なエンジンのような方がいた。彼の指示で、商業施設、オフィス、はたまた、それらの複合施設という案を蹴散らして、ホテル案でまとまろうとしていた。それまでの経緯の中で、施主へのファーストプレゼンテーションの場が与えられることになり、冒頭のくだりとなったわけだ。その時点では、ホテル案の入口に立ったばかりで、計画の詰めにはほど遠く、複雑な法規、関係官庁との調整も途中で、ましてや、デザインの話の端緒にもついていなかった。
 しかし、30年にも及ぶ私の設計稼業から来る観で、オーナー経営者の待てる時間は21日ぐらいで、複雑な設計のパズルも、その時間があれば解けるという密かな自負があって、つい「アーリ」と付け加えてしまったのが本音だ。
 銀座で仕事をさせてもらう機会は新入社員の時からあり、ブランドのキラキラする雰囲気に和の伝統も息づいているのを肌で感じていたので、現代的で和を感じるのが良いなと、心の中で案を温めてはいた。されど、その前に解決しなければいけない設計内容の詰めと関係者との調整が膨大にあった。事務所の机に向かい、案のスケッチを練り、毎日、不動産会社にも呼ばれた(心配するのは当然だろう)。スケッチに疲れて、そのまま崩れるようにフローリングの上で眠れた。2案ほどデザインをまとめたのは、シンガポールへのプレゼンの5日前だったが、どうもしっくりこなかったので、さらにもう1案つくった。いらないと言われた模型も急ぎつくり、関係者がそれを確認するのは、成田の空港ロビーという有様であった。
 結果は極めて良好で、華僑の施主からは、模型は持って帰ってしまうのか?と寂しそうに言われ、「アイ ギフト フォー ユー」と渡し、日本に帰って来てから、もう一つ、同じものをつくった。