おひつの、赤飯

updated: 2013.07.01.

 白い湯気が立ち上がる。兄がおひつの中を覗き込み、わー、お赤飯だ、とはしゃいでいた。幼ない名頃の私はその傍らで、あのむっとするもち米特有の炊き立ての匂いに咽せていた。父の仕事が建築関係だったこともあり、地鎮祭や上棟など、節目ごとに赤飯が炊かれていた。当然、その日の夕飯は別の献立になるはずもなかった。空腹には勝てず、何とかちゃぶ台に向かうが、すぐに諦めるのが常であった。
 いつからだろう、翌朝の赤飯がおいしいと感じるようになったのは。ご飯粒の先が少し乾いて匂いも収まり、ゴマ塩などを降ると小豆の甘みと一緒に口の中に広がるあの塩っぽい甘味。時には、お決まりで付いてくる鯛のお頭(これも子供には骨が固く、咽喉に刺さり苦手だった)をほぐし、お茶漬けにしたときの豊潤さ。今でも、頭の前の方が熱くなる懐かしさだ。長い間、翌朝の赤飯がなぜあんなにおいしいものに変わるかわからなかった。
 先日、母の遺品を整理していて思い出したことがあった。彼女は、天袋に仕舞ってあったおひつを取り出し、炊いたばかりの赤飯を移し変えていた。保温付き電気炊飯器が普通になり、私にとっては、ご飯を炊くという行為自体が、スイッチを押すことになってしまっていた時代にである。それでも赤飯が炊かれる度、おひつは天袋から引っ張り出されていた。そうか、あの適度に水分が抜けて乾いた感じに変わるには、おひつでなければならなかったのだ。翌朝、冷えた赤飯を好んで食べていたのは、私と母だけだったと思う。
 かつて、居宅を杉の数寄屋普請にする風流人はめずしくなかった。彼らは杉の繊細さや丸太の微妙な凹凸を好んだ。そして、建物ができてから3年程は、人様に披露しなかったといわれる。それぐらいの年月が立ち、ようやく杉材が日焼けし、木目に微妙な陰影が浮き、丸太も磨き込まれて、鈍い色艶が醸し出すようになるのをよく知っていた。できたばかりの湯気が立っている姿ではなく、ほんの少し味わいが出てからが、ようよう本来の姿の始まりなのだという大人の美意識でもあった。現代の数寄屋、とりわけ、その時間を許されていない商業建築を造る際はどうすればいいのか?
 村野藤吾は、ウェスティン都ホテル京都の数寄屋風別館「佳水園」、グランドプリンスホテル新高輪の「茶寮 惠庵」などに米松を好んで用いた。時間が経過した杉に見えて、材料も揃えやすい、値段もほどほどという現実をよく見据えた選択であった。その上で、決して押しつけがましくない装飾的な工夫を加え、華やかで繊細な村野流数寄屋を展開していった。
 少し時間が経過して、でき立ての熱気を抜き、また違う味わいを出す。おひつに入れた翌朝の赤飯がおいしい。そこに、ゆったりとした大人の世界を垣間見せる懐かしい何かが流れている。

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